川辺先生はあん摩マッサージ指圧の実技担当教員だった。
小柄で目が細く、いつもにっこり笑ったようなお顔をしていた。
おっとりした穏やかな話し方で、
授業の時には怒ったところを見たことがなかった。
当時学校の研究室でアルバイトをさせてもらっていたので
学生の中ではそこそこ色々な先生と交流がある方だったけれど、
個人的に1対1でご飯を食べたのは後にも先にも川辺先生とだけだ。
学校の近所でランチしながら色々な話をした。
私が卒後に子宮筋腫の手術で入院した時には同期とお見舞いに来てくれた。
若い頃にヨルダンでマッサージ師をしていたり、
日本では某有名人の専属マッサージ師をしていたこともあったらしい。
でも、私が惹かれたのはそこじゃなくて
先生の価値観とか、死生観みたいなもの。
当時は緩和ケアやターミナルケアに強く興味があったので
重篤な病の人とどう関わるか模索したいと思っていた。
先生はヨルダンから帰国後しばらく、がんになったご友人の世話を焼いたそうだ。
話の細かいところは覚えていないのだが、
ヨルダンで貯めたお金を使って先生が最期までその方を看たという話だった。
「私の周りって結構 がんが多いの」
そのあたりが多分きっかけになって
先生はリンパドレナージュ(リンパ浮腫を改善するための専門マッサージ)の施術者でもあった。
リンパ浮腫を患うのはがんの手術後が多いので、よく、がんになった人たちの話をした。
そこから、死ぬときは私もがんで死にたい、他の病気と違ってがんは死ぬ準備ができるからいいと思うの、
という、一生忘れることのない会話をした。
前後して先生のお父様が病院をたらい回しにされたのが元で亡くなった時には
珍しく声を荒げていたことも思い出す。
よく先生と死についての話はしたけれど、早く死んでも良いとか考えていたわけではなかった。
先生の「寿々洋」という名前は本名で、しかも読み方は「すずよ」ではなく「すずよう」という。
珍しい名前の由来を聞いたら、お父様が独断でつけたそうで
真意はわからないけれど、
戦争で南洋にいた頃、現地で奥さんのような存在の人がいて、
その人の名前の音を漢字に当てはめたのではないか、と言っていた。
「父は戦争に行って戦後もすぐには帰国できず大変な苦労をした。
お国の為にと尽くしたのに、最期にそのお国から粗末に扱われて、
こんな仕打ちってあるかしら。父はもっともっと、生きたかったと思うの」
私達鍼灸マッサージ師の社会的な発言力はとても弱い。
立場を良くするためには
たくさん稼いでたくさん税金を払いなさい、と言ったのも川辺先生だった。
会うたびにお互い話題には尽きなかった。
最後に会ったのは去年の夏、学校の臨床実習施設で、
現在のあん摩マッサージ指圧授業に苦言を呈していた。
先生の施術の手は大変柔らかく、優しいタッチが特徴で、
試しに先生の目の前で私のことをちょっと揉んだ研修生に
「そんなやり方はダメよ」
と一言ぴしゃりと仰った。
そういう風な言い方で注意をされたのは初めてで、同時に妙にピリピリした空気というか
先生が苛立っているのを感じた。
そういえば、卒業以来 なかなかマッサージを習う機会はない。
あらためてもう一度、先生が考えるあん摩マッサージ指圧を、個人的に教えてもらえませんかとお願いしたら
今は引き取って飼い始めた保護猫たちのことで忙しいから、
引っ越しして落ち着いてからならいいわよ、
と言ってもらえた。
じゃあ10月過ぎたら連絡しますね
と言いつつ、なんとなく私も忙しくて先生に連絡しないまま年が明けてしまった。
そしてまた夏がやってきたが、連絡することは忘れていた。
その川辺先生が今月初めに亡くなったと学校に連絡が入ったらしい。
2週間前までは講師をされていたそうだから誰にとっても突然の訃報だった。
昨年の、やや厳しい言動は根底にご自分でも気づかないような体調の変化もあったのだろうか。
まだ64歳だった。
今も先生の声と顔をありありと思い出す。
特に先生がお父様を亡くされた時に聞いた「もっともっと生きたかったと思うの」というフレーズが
「私はもっともっと生きたかった」
に頭の中で変換されて聞こえてきてしまう。
先生、酷いなあ。
いつか私たち、がんで死ぬはずじゃなかったの。
そしたら多分、ちゃんとお別れする準備の時間が持てたのに。
人の背中に指を当てるとき、川辺先生の小さくて丸みを帯びた優しい手を思い出す。
どうして去年のうちに連絡して一度でも教えを乞わなかったのかと
後悔もしている。
川辺寿々洋先生のこと
この記事を書いた人
Saori Takano
「ここに来て良かった!」と心から言っていただける治療室を目指しています。
鍼灸治療は人対人の相性が重要だと思っています。
来院するかどうか迷っている方は
ざっと眺めていただいて参考にしてくださいませ。